『太陽』もいいけど『QA』もね!【新保信長】 連載「体験的雑誌クロニクル」26冊目
新保信長「体験的雑誌クロニクル」26冊目
子供の頃から雑誌が好きで、編集者・ライターとして数々の雑誌の現場を見てきた新保信長さんが、昭和~平成のさまざまな雑誌について、個人的体験と時代の変遷を絡めて綴る連載エッセイ。一世を風靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」というユニーク雑誌まで、雑誌というメディアの面白さをたっぷりお届け!「体験的雑誌クロニクル」【26冊目】「『太陽』もいいけど『QA』もね!」をどうぞ。

【26冊目】『太陽』もいいけど『QA』もね!
そのニュースを知ったとき、まず頭に浮かんだのは「間に合わなかった!」という無念の思いだった。もう四半世紀前の話になるが、雑誌『太陽』が休刊するというのである。当時の新聞は次のように報じていた。
〈累積損失二十四億円を抱え、経営の立て直しが急務となっていた出版業界しにせの平凡社は十日、看板だった月刊誌「太陽」の休刊をはじめ、人員削減、自社の土地売却など大幅なリストラを含む自主再建計画を、労使で基本合意した〉(「朝日新聞」2000年10月11日東京朝刊)
『太陽』といえば、百科事典で鳴らした平凡社ならではの知識と教養への自負と探求心を雑誌の形で発信した総合グラフィック誌だ。方向性は少し違うが、【22冊目】【23冊目】で取り上げたクオリティマガジンの元祖と言ってもいいかもしれない。創刊は1963年7月号で、私が生まれる前。当然リアルタイムでは見ていないが、〈わたしどもは、知識の太陽系を創造しようという野心にそって、もっとも緻密な計画をたてている〉という創刊の辞の力強さはハンパない。
書店で存在を意識するようになったのは、80年代半ばの大学生の頃だろうか。ただ、当時の他の雑誌と比べて値段が高かったし、特集テーマ的にもそこまで惹かれるものがなかったというのが正直なところ。「祇園祭」(1985年7月号)、「化粧模様」(同12月号)、「甦るアール・デコ」(1986年2月号)、「私の京都案内」(同5月号)、「みちのく名物旅館」(1987年10月号)とか言われても、大阪の食堂の息子で学生の身には格調が高すぎる。
それでも、“上質な大人の雑誌”としての憧れはあった。初めて買ったのは、1989年7月号。特集は「世界を創った100枚の写真」である。もう編集者として働き始めていた頃で、勉強の意味も込めて手に取ったのだと思う。写真の元祖ともいえるダゲレオタイプの発明者・ダゲールの写真に始まり、スティーグリッツ、ラルティーグ、マン・レイ、ブラッサイ、ロバート・キャパ、アンセル・アダムズ、ユージン・スミス、ロバート・メイプルソープ、シンディ・シャーマン、セバスチャン・サルガドまで、名だたる写真家の作品が次々に登場する誌面はまさに写真史そのものだ。

それ以降、「世界を創った肖像写真100枚」(1990年7月号)、「100 NUDES」(1991年7月号)、「100 Fashion Photos」(1992年7月号)などの写真特集や「南方熊楠」(1990年11月号)、「澁澤龍彦の世界」(1991年4月号)、「稲垣足穂の世界」(同12月号)、「江戸川乱歩」(1994年6月号)といった人物特集、「コレクター」(1998年8月号)、「産業遺産の旅」(1999年11月号)、「日本の美100」(2000年1月号)などの号を買っては読んだ。

